横浜の山下公園から海を見渡すとひときわ目立つ船、氷川丸。
この船には世界的に有名な喜劇王チャールズ・チャップリンも乗り、魅了したともいわれています。
どうしてチャールズ・チャップリンは氷川丸に乗ったのか。
チャールズ・チャップリンを魅了した氷川丸のアール・デコとは。
なぜ氷川丸は横浜にあるのか。
など、調べてみましたので、ご紹介します。
どうしてチャールズ・チャップリンは氷川丸に乗ったのか。
チャールズ・チャップリンが活躍していた時代、海を渡る唯一の交通手段は船でした。
氷川丸は1930年4月に竣工し、5月に初めて海に出航。
初めて配船されたのが、北米航路のシアトル線で、
配船されてから太平洋戦争によって航路休止になるまでの11年3か月間は、太平洋を横断する貨客船として活躍しました。
この期間の航路数は73航海、乗客人数延べ1万人と、大活躍をした氷川丸に乗船したのが、
世界的に有名な喜劇王、チャールズ・チャップリンです。
映画「街の灯」を完成した後、日本に観光に来ていたチャールズ・チャップリンは、
1932年6月2日、横浜発シアトル行きの氷川丸に乗船して帰国の途に就きました。
チャールズ・チャップリンの他にも、氷川丸に乗船した著名人がいます。
1937年10月 秩父宮・同妃乗船(ビクトリア〜横浜)
1938年4月 嘉納治五郎乗船(バンクーバー〜横浜)
1939年6月 宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)乗船(シアトル〜横浜)
チャールズ・チャップリンを魅了した氷川丸のアール・デコとは。
喜劇王チャールズ・チャップリンも魅了したと言われている氷川丸の内装アール・デコとは一体どのようなものなのでしょうか。
氷川丸の内装には、フランス人の工芸家のマーク・シモン氏によってアール・デコ様式が採用されています。
特に氷川丸の1等サロン・喫煙室・食堂と入口階段には、今もアール・デコの洗礼されたデザインを見ることができます。
アール・デコ(仏: Art Déco)とは、アール・ヌーヴォーの時代に続き、ヨーロッパおよびアメリカ合衆国(ニューヨーク)を中心に1910年代半ばから1930年代にかけて流行し、発展した装飾の傾向です。
アール・ヌーヴォーは、植物などを思わせる曲線を多用した有機的なデザインであったが、富裕層向けの1点ものが中心で、第一次世界大戦が勃発し衰退しました。
世間は大量生産品を求めるようになり、大量生産とデザインを調和して生まれたのがアール・デコと言われています。
特徴は、幾何学図形をモチーフにした記号的表現や、原色による対比表現などありますが、装飾の度合いや様式は多様です。
アール・デコは、建築にも採用され、1930年頃はニューヨークの高層ビル群(クライスラー・ビルディング・エンパイア・ステート・ビルディング・ロックフェラーセンターなど)が有名で、アール・デコデザインのピークとも言われています。
家具や内装としては、チャールズ・レニー・マッキントッシュやウィーン分離派、フランク・ロイド・ライトのデザインもアール・デコの流れに位置づけられることがあります。
日本にも様々な場所にアール・デコデザインが採用されており、東京都庭園美術館、大阪府庁舎、神戸市文書館などの建築物のほか、陶磁器、食器で有名なオールドノリタケなどが挙げられます。
なぜ氷川丸は横浜にあるのか。
貨客船、戦時は病院船、商船、そして貨客船として再び復活し、1960年に引退した氷川丸。
どうして横浜にあるのでしょうか。
引退して横浜港外に止められていた氷川丸なのですが、神奈川県と横浜市から横浜のシンボルとして山下公園に止めて、海事・海洋思想普及のための海の教室と宿泊施設を兼ねた観光船にしたいという要望がありました。
そこで改修工事を実施し、1961年6月2日に氷川丸は桟橋に横付けされ、海の教室として開業しました。
その後、観光船や水族館、レストランビアガーデンなどを展開。
1973年に宿泊業務は終了。
2006年に氷川丸は再び大規模改装工事を実施のうえ、2008年4月25日に“日本郵船氷川丸”としてデビューしました。
2003年11月に横浜市指定有形文化財に登録、
2016年には、戦前の日本で建造され現存する唯一の貨客船として国の重要文化財に指定されました。
現在は一般公開され、氷川丸の船内を見ることができます。
詳しくはこちらより
まとめ
今回は横浜の山下公園の桟橋にある氷川丸についてまとめました。
そして
どうしてチャールズ・チャップリンは氷川丸に乗ったのか。
チャールズ・チャップリンを魅了した氷川丸のアール・デコとは。
なぜ氷川丸は横浜にあるのか。
についてご紹介しました。
横浜や山下公園にお越しの際は、見に行くだけでも価値があると思います。
横浜の山下公園にあるチャールズ・チャップリンも魅了したと言われる氷川丸についてご紹介しました。